2月27日(日)に終了した
「第26回ジョイントコンサート」
の反省検討会に昨日参加してきました。
各バンドの実行委員メンバーで来年の演奏会に繋げる意見を出しあいました。
キャッスルの皆さんには次回の練習時に会議結果を伝達しますね。
以前、団員の皆さんにはお話し致しましたが、議題の中の一つに地震で被災された方へジョイント参加団体から心ばかしの何かをしようという話が挙がっていました。
まだ決定ではありませんが、コンサート運営費又は打ち上げ残金を義援金として送ろうという方向で話が進んでいます。
義援金の送り先は
「全日本吹奏楽連盟」
が妥当ではないかと実行委員会メンバーで一つの案として考えています。
全日本吹奏楽連盟に義援金を送れば集まった義援金を活用して東北方面で被災した学校や団体に楽譜や楽器を購入してくれるそうです。
我々音楽人からすれば、この上ない使い方をしてくれるみたいですね。
リアリティーがあるので良いのでは?
そこに我々の想いを託そうと現在思案中であります。
決定すれば皆様に改めてお知らせしますね。
誤解無いようにしてもらいたいのですが他の使途も検討中であります。
さて、話はジョイント会議の中身にもどり改めて感じたことを少々記します。
「限界に対する考え方」
この限界に対する考え方や捉え方について述べてみたいと思います。
人は考えに伴って感情が生まれます。
当たり前ですね(笑)
例えばコップの中に半分の水が残っている場合、下半分の水を見るか、上半分の空間をみるかによって捉える感情が変わってきます。
人によって、
「まだ水が半分も残っている嬉しい! 」
と感じる方がいれば、
「もう水が半分もなくなった。がっかり」
と捉える人によって見解が分かれるのではないかと思います。
このような物事の見方、考え方の違いにより、
「明るく前向き」
になることもあるでしょうし、相反して
「暗く卑屈的」
にもなることもあります。
私が言いたいのはパッと見て当たり前に見える(発生する)現象面の話は、起きて当たり前、想定内、当然というベースを根幹に、
「その物事が起こりうる前提となること」
あるいは、
「集団で決定した事項に基づく流れ」
というものを汲んだり、理解して行動する、或いは発言する、行間を読むということをしなければ
「程度が高くない学級会」
のレベルを抜け出せないと私は感じます。
コップの中の水が多い少ないという話にこだわるのではなく、
「コップをテーブルのどこに置いているのか?」
という大原則、大前提を捉えた上でそこから初めてコップの中身を議論しなければなりません。
発言や意見には必ず責任がついてきます。
責任がないところで
「あと出しジャンケン」
したり
「たられば」
の話をしても仕方ないと痛感しています。
ひとつの行為(行事)をする時に嫌ならいっそ辞めればいいのです。
ボイコットも一つの感情表現だと私は思っています。
子供ならともかく世の中それを認めてくれるほど甘くはありません。
物事をチョイスするのはどこまでも自分自身であり、人がどうしたからこうなったというのは二の次の話です。
責任を理解した大人のベースに乗っとってこちらはシビアにやっているつもりです。
「そんなことなんて一つの物事をする前から承知のうえでやってることじゃない」
ということを改めて話するほど残念なことはありません。
批判は簡単です。
個人の解釈も当然自由です。
皆さん今一度、
「やすきに流されるのではなく」
一つの本番に対する位置付けや考え方を改めてみましょう。
当然私やキャッスルにも言い聞かせていることでもあります。
ジョイントコンサートを大切にしたいという想いが強いがうえに来年、
「出る、出ない」
も含めて考えさせて頂く良い機会になったと思っています。
きつい言い方をしていますが、前向きに真剣に考えているが故にこのような表現しかでないことを御理解下さい。
「コップの水の限界」
物事の始まりや起こりに戻り、
「共通認識として決めたはずの一つ一つの会議の足跡」
をたどりながら昨日の結果を真摯にうけとめています。
流れを汲まない話は論外ですね(笑)
なんとなくなら辞めましょう。
今はそんな気持ちです。
各バンドの先輩達が築いて長く続いてきた行事を決してなくしたくはありません。
ジョイントコンサートは、大阪のバンドの裾野を広げる意味でもこれからも沢山の人やバンドがが携わってやっていくもだと思っています。
一生懸命やっている人も沢山います。
不器用な言い方しかできませんがこれが本音です。