ブエノチェ~♪
あらから25年の月日が経ちました。
本日10月27日は
「いくつになっても音楽を続けて頑張ろう」
そう心に刻んだ記念日なのです。
「1990年(平成2年)10月27日」
記憶に鮮明に残る25年前のことを思い出していました。
「第38回全日本吹奏楽コンクール」
全国大会5年連続金賞受賞したことによる
「全日本吹奏楽コンクール特別演奏」
憧れの地
「東京普門館」
において特別演奏をした日のことを思い出していました。
私は当時、母校のキャプテン(部長)を務めてた。
前日の夜。
都内での練習を終え、遠征先の宿舎で先生達と会議に臨もうとした時です。
どうも調子が悪い。
疲労がたまっていると思いきや体温を計ると
「37度」
だった。
先生に報告すると
「もうええ。お前は寝とけ。」
素っ気なくぶっきらぼうに言われましたが
「明日に備えなさい」
との愛情だとすぐに理解した。
OB指導陣や総務(学生幹部)メンバーが会議する中、後ろ髪をひかれながらも一人部屋に戻り横になった。
明日に控えた本番で気持ちは高まっている。
でも静養しなければいけない。
まだカセットウォークマンが主流だった時代。
布団を頭から被り美空ひばりさんの
「川の流れのように」
真っ暗な中、これを何度も聴きながら眠りについた。
子守歌だった。
翌朝。
全国大会当日。
空がとても綺麗に見えた。
周りの皆さんの気づかいのおかげて体調も悪くない。
普門館は全国大会に出場する学生達で熱気に包まれていた。
全国選抜合宿で一緒だったメンバーや弟などが所属する学校などのメンバーとすれ違うこともあった。
会釈でとどめておく。
立ち話など一切しない。
本番前ってそんな緊張感や雰囲気作りが大切だった。
中学時代や普段の私を知る人はそんな表情を出さない私のことを当時
「鉄仮面」
と陰で呼んでいたらしい。
今はただの気のええおっさんなのに…。
当時はそれくらいストイックだった。
コンクール出場団体全ての演奏が終わる。
弟が出場する某校も良い演奏だったと人伝えに聞くが自分は既に本番モードに入っている。
同じ全国大会の舞台に兄弟で違う学校として出場するのも珍しことだったらしい。
普門館での演奏。
「歌劇アイーダ」
アイーダトランペットの活躍や距離のある2階客席からのバンダに会場が盛り上がっているのが分かった。
「ザ・ヒットパレード」
演奏の前に先生が私たちに常々言っていた叱咤激励が頭によぎる。
「お前らはその年の1年ことかもしれへん」
「OBさん達が汗水流して築いてきた10年分の想いを背負ってお前ら本気で取り組んでるか?」
「当たり前のようにナメてやっとったらアカンぞ」
そんな言葉が呪文のように体の中を突き抜けている自分がいた。
当時は全国大会で5年連続金賞を受賞すると翌年特別演奏として普門館の舞台で演奏することができた。
母校は
「1980年(昭和55年)~1983年(昭和58年)4年連続金賞」
「1984年(昭和59年)銀賞」
5金の王手の年、銀賞に泣いた経験がある。
リベンジの想いを胸にチャレンジが始まった。
「1985年(昭和60年)~1989年(平成元年)5年連続金賞受賞」
私はこの5年連続金賞のうち4年目、5年目の演奏と特別演奏の3年間に携わることができた。
そんな10年分の想いを受けとめながら舞台に立った。
舞台下からマイクが上がってくる。
歌い終えた。
普門館一杯に埋め尽くされた5000人の客席が
「ゴーッ」
と怒号のように聴こえるようなうねりを感じた。
「我々の世代で一つの時代の区切りができた」
「本当に良かった」
そう感じた。
「常勝集団であり続けるためのプレッシャーからの解放」
そんな安堵感に包まれたことが本心である。
演奏を終え会場に出る。
「ものすごく沢山の保護者さんや関係者の皆さんが写真撮影する私たちを温かく迎えてくれていた」
この時、
「本当にありがたいな」
と思ったのと同時に
「人は一人では何もできないこと」
「音楽を頑張ってきて良かった」
「努力は嘘をつかない」
そんなことを強く感じた日となった。
「1990年(平成2年)10月27日」
「いくつになっても音楽を続けて頑張ろう」
そう心に刻んだ記念日なのです。
そんな情熱や想いが根底にあるから今の自分があるのだと。
あの日感じたありがたさを今は毎日のように毎週のように感じています。
キャッスルの練習に行く度に
「音楽が好きな人に囲まれていること」
「一人ではないこと」
「大人になっても一生懸命すること」
そんな温かい雰囲気に包まれています。
親愛なるキャッスルの皆さん!
いつもありがとうございます。
「第6回祭(定期演奏会)」
共に頑張りましょう!
※第6回祭まで残り32日・残り練習回数9回・残り練習枠13枠